みなさん こんにちは。
まふまふさんのオリジナル曲と言えばコレっていう曲を持ってきました。
まふまふさんは本当は和物が好きなはずなんですよね。
和風の曲や歌詞が結構ありますし、ご本人も「前世は忍者だったかも」とつぶやいています。
だけど、この「輪廻転生」はむしろ西洋の天使のイメージなんですよね。
収録されているアルバム「明日色ワールドエンド」のジャケットもゼンマイ仕掛けの羽で座り込む天使のまふまふさんが描かれています。
「天使」としてちょっと失敗してしまったかのようなイラストです。
西洋は悪玉と善玉とがはっきりわかれていて、少しでも悪事を働いた人間は裁かれてしまいます。そんな世界から逃げてきた天使なのかもしれませんね。
とまあこんな感じで、この歌に見え隠れする宗教観を推測し始めたら自分でも深読みしすぎ?と思う解釈になりました笑。
あくまでも個人の解釈としてお楽しみください。
ー「輪廻転生」は、西洋的宗教観への疑問を歌った歌である
公式発表ではないのですが、まふまふさんは立教大学の出身という噂があります。
偏差値自体も高い学校なうえ、立教大学はミッションスクールです(キリスト教主義学校)です。
聖職者養成のための学校ではないので、信義は問われませんが、「宗教学」としてキリスト教を深く掘り下げることができます。
まふまふさんが本当に立教大学だったのか、そうだとして学部は何だったのか、その辺はわからないのですが、個人的には、その辺の普通の日本人よりかは独自の宗教観を確立しているのではないかと思っています。
その前提で、この曲を聴くと、
どれだけ泥が泥を捏ねたって泥以外作れやしない
これは、旧約聖書にある、神様は土から人間を作った話のことだと思います。
旧約聖書には、
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」
とあります。
これは、キリスト教徒にとっては大切な一節です。なので、安易に勝手な解釈をしてはいけないと思いますがあくまで私個人的な想像では、この一節を否定している歌詞なのではないかと思っています。
教えておくれ人は人を裁いていいのだろう?
この歌詞も、解釈に悩みます。
「人が人を裁くのはいけない」というメッセージなのか?
旧約聖書では裁きは常に神から下るので、そうではなくて「人が人を裁くべきだ」というメッセージなのか?
どちらでしょう。
旧約聖書では、次々と預言者(未来を予測する予言者ではなく神の代弁者という意味)が現れ、神を主とし、様々な厳しい試練のもと信仰を試されます。
そして何度も世界の終わりが訪れます。
この世に終わりをつけておいて
終えるななんて何様だ
ノアの箱船や退廃都市ソドムとゴモラのことでしょうか。または新約聖書の方のヨハネの黙字録の方でしょうか。いずれにせよ新旧の聖書の内容を連想させます。
聖書は世界中で読まれており影響力がある本ですが、宗教離れしている現代の日本の若者にとったら、神への信仰のために息子を殺そうとしたり(イサクの燔祭)、街が消滅させられたりするのは理不尽な感じを受けるだろうと思います。
ちなみに、いくえみ綾原作のドラマ「あなたのことはそれほど」の主題歌を歌っていた覆面バンドをご存知ですか?
バンド名は「神様、僕は気づいてしまった」。
Vo. Gt. は”どこかのだれか”さんです。
どこかのだれかさんは、めっちゃ声がまふまふさんに似ていて笑、いや、もうまふまふさんでしょうと思うのですが、公式発表はありません。でもまふまふさんでしょう。
どこかのだれかさんは、バンド名の由来について、
「10代の頃って、言葉にできないからこそ苦しい時期ってあるじゃないですか。
僕たち大人だって、人生で行き詰まったときは神様にすがってしまう。自分の力で証明できない部分を、超常的な“神様”という形に押し込めてしまったりしますよね。
でも、それは思考停止することだし、どうなの?と思うわけです。それに、そうやって“神様”とされた存在があるとするならば、人間に甘えられて酔っているんじゃないかって。
“僕たちはちゃんとそういうことに気づいているよ”ってことを音楽で表現したくて、この名前になりました。」
と、語っています。
この、どこかのだれかさんがまふまふさんだとしたら(まふまふさんに違いないと思うのですが)、この絶対的な存在である「神様」に対する疑問を少なからず持っているのではないかと思います。
ただ、仏経と西洋の宗教は違いますね。
キリスト教には復活はありますが輪廻転生を否定しています(一般的な話でお願いします。詳細となるとキリがないので)。
ですから、輪廻転生というタイトルからしてキリスト教を否定しています(これまでの歌詞からキリスト教について全くの無知ではないと思います)。
しかし仏教は輪廻転生がありますね。
この歌のタイトルは輪廻転生なので、仏教は否定していないのかな?と思います。
また、キリスト教と日本の神様なら、印象も違ってきます。
西洋は善悪がはっきりしていて、悪は徹底的に裁かれます。神様は絶対なる神です。
一方、仏教や神道は神様だって悪さをしたり失敗することがあります。
ひょっとしたらまふまふさんのいう神様は「西洋の神様」なのかなと思います。
また、まふまふさんはその優しい性格からか、自分を責めたり罪悪感を感じてしまうことが多いのではないかと思います。
「忍びのすヽめ」の歌詞に「未だ十字架を背負いこんで」とありますから。
そういった原罪の考えが自身にもあるが故に、同族嫌悪で裁きの神を否定しているのかな、と思ったりします。
ただ、そうなると
荒縄で吊れるような
命に答えはない
の解釈が難しくなりますね。
聖書の中には関連する内容が見つけられなかったので、「蜘蛛の糸」のことなのかなと思うのですが、どうなのでしょうか。
「蜘蛛の糸」そのものは仏経経典に出てくるわけではなく、芥川龍之介が日本で変容した仏教を題材にして書かれている児童文学なため、もともとの仏教の釈迦如来の行動とは矛盾があるとも言われています。
ただ、そうであっても「命を吊ろうとする行為」への批判、「たとえ吊られても嬉しくはない」と言った、お釈迦様への批判が感じられなくもない歌詞です。
「廃墟の国のアリス」でも、ギリシア神話に出てくる黄金林檎が歌詞に出てくるので、まふまふさんは色々な宗教について、その辺の人より詳しいと思いますね。
深読みしすぎるとキリがありません笑
まふまふさんは、その優しさと頭の良さ故に、こういった歌詞が生まれたのかな、と思います。
「弱い人間」「神様にすがるしかない人間」というものが哀れに見えているのではないでしょうか。
個人的には、日本の神様の方が親しみやすく好きです(一方で、親切なクリスチャンの方にも多く会ったことがあるので、聖書への認識が低い私がどうこう言える資格はないと思っています)。
西洋は悪玉善玉がはっきりしていますが、日本の神様は、神様だって悩み、失敗だってしますね。
また、「裁きの神」の印象が強いのは旧約聖書の方で、新約聖書の方は「右の頬を打たれたら左の頬を向けよ」と言うような愛と寛容の教えのような気がします。
まふまふさんの言う神様は、西洋的な、特に旧約聖書の中の神様なのかな?と思っています。
実際の意味はまふまふさんに聞かないとわかりませんが、私なりの歌詞解釈でした。
読んでくださってありがとうございました。
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