みなさん、こんにちは。
前回は「発達障害とは何か」ということで、佐々木正美先生の本を参考に書かせていただきました。
また小学生の子が書いた具体的な話をご紹介しました。
ここでちょっと、言葉の整理をしたいと思います。
言葉とは恐ろしいもので、良くも悪くもイメージを作り出してしまいます。
まず、「障害」という言葉ですが、これは、その人本人が障害なのではないのです。
英語は、
handicapped
と、受け身形で書かれるのをご存知でしょうか。
つまり、障害を被っている人のことです。
例えば、私は目が悪いです。右目は0.1ありません。左は0.2くらいかな…。
でも、コンタクトレンズがあります。メガネも併用しています。特に不便はありません。
しかし、これらのツールがなければ、私もhandicappedです。
つまり、障害を被るか否かは、フォローするツールや体制が整っているかどうか。
さらに、周囲の理解があるかどうか(例えば、コンタクトレンズやメガネの理解がなくて学校で使用禁止などになっていたら、私は大きなハンデを被っていたでしょう)。
それによって、そのことがハンデになるか、ならないか、小さいハンデか大きいハンデか、変わってくると思います。
そして、その特徴が多数派の場合の方が、ツールやフォローの恩恵を受けられ孤独を感じないことが多いです(視力の低下する人が多い日本だからこそ、私は自分の目が悪いことをあまり気にせず生きていると思います。これが、視力がいい人ばかりのアフリカの国に行ったら…完全に少数派です。メガネがすぐに手に入るかはわかりません)。
今、障害を障がいと表記しようだとか、定型発達、不定形発達と言おうだとかいう流れがあります。
たしかに、字や言葉のイメージは重要なので、それ自体は良いことなのではないかと思います。
ただ、本質的には、障害なのは、本人ではないのです。
本人は、「障害を被っている」のです。
ツール、フォロー体制、理解、が少数派に届くにはどうしても時間がかかるのです。
ですので、長らくハンデを被ってきたといえます。
その意味で少数派には「障害」は確かにあります。
本当に、障害に対する差別意識がなくなり、便利なツールやフォローできる体制が整えば、害の字をどうするだとか、定型不定形の言い方だとか、関係なくなると思っています。だって、「目が悪い」ことをそんなに気を使って言いませんもの。ただ、そんな時代が来るまでは、言葉や文字に気を使うなどして理解を深める必要があるのでしょうね。
NHKの「バリバラ」という番組で、
「生きづらさを感じるすべてのマイノリティー」
という言葉を使っているのですが、結局のところ障害あるなしやその呼び方よりも、
「生きづらさ」
に注目した方がいいと思います。
だって、「障害」はその人の本質ではないのですから。
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